Hamarimono

そのときそのときのマイブームなど。

絵本「おおきな木」の翻訳解釈比べ

 きっかけは、近所の獣道のような場所でたまたま見つけた木です。



 この木を撮影したのは今年4月頃。写真では表現しきれませんが、本当に大きな木なんです。

 住宅街のなかにある複雑な五差路の側にデーンと構えています。先日たまたまこの木の側を通る機会に恵まれました。木の幹から上に連なるツタの色がほんのり秋色に変わっていましたが、大きな木は変わっていませんでした。

 どんな種類の木かは分かりません。ただ、漠然と「大きな木」と呼んでいます。これは、私がかつて読んだ絵本「おおきな木」を思い出すから、そう呼んでいるのかもしれません。


 絵本「おおきな木」の作者は、シェル・シルヴァスタイン。原題は「The Giving Tree」(与える木)。

 緑色の表紙がとても目立つ絵本なので、一度は書店などで見かけたことがあるかもしれません。


おおきな木

おおきな木


 ___主人公は「おおきな木」。「おおきな木」の側で無邪気に遊ぶ少年とは大の仲良しでした。

 「おおきな木」は少年のの成長をずっと見守り続け、時には優しく愚痴を聞き、時には少年の望む「物質的なもの」を与え続けます。しかし、与え続けた結果、「おおきな木」切り株になってしまいました。

 数年、何十年と月日が経ち、「おおきな木」が与えたものを持って何処か遠くへ行ってしまった少年が「おおきな木」のもとへ戻ってきました。少年は、目には深い皺が刻まれ、背中も曲がり、ヨボヨボと歩く老人になっていました。

 老人は、「疲れた….。もう欲しいものは何もいらない。ここに座っていいかい?」と呟きます。

 「おおきな木」は疲れ切った彼を優しく受け入れるのです___。

 
 というのが、絵本のおおまかなストーリー。いろいろな感想があるかと思いますが、私自身が独身だった頃、息子が小さかった頃、そして息子が中学生になったいま読み返したときでは、感想や絵本を読んで思うことが変わってきています。

 「おおきな木」の少年への「無償の愛を描いた絵本」....と言ってしまえばそれまで。

 私自身に置き換えてみても、「相手の成長を願い見守り続けること」なんてなかなかできないですし、「相手が望むものを与え続けること」なんていうのは….「やれ」と言われたとしてもできるものではありません。

 ただ、結婚して子育てして、その他いろいろ人生を重ねてくると、物質的なものがどうでもよくなることがあります。勿論、「物質的なもの」は日々の生活のなかには必要不可欠なもの。無いより有ったほうがいいに決まっています。と言いながらも、自分を心を満たしてくれるもの・幸せな気持ちに導いてくれるものは、物質的なものだけではなく....もっと違うものではないのかな、って最近思うのです。

 その辺がまだ自分の中で整理されていないですが、ひとつ言えるのは自分にとって大切な人には「幸せになってほしい」「笑っていてほしい」っていうこと。そのために、自分ができることがあれば何かしてあげたいし、努力し続けたい。何もできなくても「ずっと見守ってあげたい」という気持ちが沸き起こってきます。


 心に潤いが欲しいとき、この絵本を手にとって読み返してみると、いろいろと考えが巡ってきます。ぐるんぐるん、思考が動き出すのが分かります。それが逆に私にとっての「癒し」になるのかもしれません。

 ま、格好いいこと言っているんですが、いつもいつもそう思うわけでもなく、疲れていたり、余裕が無くなってくると逆に相手に「癒してほしい」と思います。なんだか矛盾しているし勝手ですよね。

 といった自分自身の気持ちの変化から考えるに、「おおきな木」は純粋に少年のことが大好きで、少年の幸せだけを願い続け、見守り続けたのかなと。自分がそうしたかったからそうしたし、だから後悔していない。だから少年と再会できて嬉しかった。

 いろいろな考え方があるでしょうが、私は「おおきな木」は、少年と出会えて幸せだったと思うのです。いや、思いたいのかな?



 ___最後に、「おおきな木」の翻訳について私の考えを述べます。主観が大きく入り交じるので、「こんなこと考えているヤツもいるんだ〜」ぐらいに軽く読み流していただければ幸いです。

 ストーリーのなかで、大人に成長した少年が人生に挫折し「人生、もう何もかも嫌になった。船にでも乗って、どこか遠くへ行ってしまいたい」と、「おおきな木」に愚痴をこぼしにやってきます。「おおきな木」は、「それなら、僕の幹を切って船を作るといい」と少年に提案。少年は本当に切り倒し、船を作ってどこかへ行ってしまいました。そのときの様子を描く文章がこれです↓。

 
 And tree was happy…. but not really.

 
 これは、原書の表現。とても簡単な英語ですが、そのニュアンスをどう受け止められるでしょうか?

 1976年に出版されたときの「おおきな木」の翻訳者は、ほんだ きんいちろう氏で、以下のように翻訳しています。

 
 きは それで うれしかった・・・だけど それは ほんとかな?
 (ほんだきんいちろう氏訳)

 
 そして、2年ほど前に新訳版が出版され、村上春樹氏が翻訳しました。以下のように翻訳しています。


 それで木はしあわせに・・・なんてなれませんよね
 (村上春樹氏訳)

 

 私が持っている絵本「おおきな木」は、ほんだきんいちろう氏翻訳版です。

 たったこれだけの文ですが、物語の軸となっていく大事な文です。

 旧訳では「読者への問いかけ」が新訳では「否定」に変わることで、「おおきな木」の印象だけでなく、少年との関係性も大きく変わってくるように思いました。翻訳者の解釈の違いといってしまえばそまでですが、私自身は、ほんだきんいちろう氏訳のこの文章が胸に突き刺さったのを覚えています。

 翻訳しだいで大きくニュアンスが変わってくることに驚いていますし、それだけに「日本語」って難しい。絵本というのは文が簡潔なだけにダイレクトに心に響いてきます。翻訳者は意識していないかもしれませんが、翻訳者の価値観や考え方が反映されてしまうものだなと感じました。

 でも、高度経済成長期を過ぎてバブルも弾け、日本がどういう方向へ向かうのか分からない現代社会。楽しいけれど、どこか不安で、人と繋がっているつもりでいるけれど、なんだか繋がっていないような気がする。....そんな世の中では、「こうじゃない、こうだよ。こうしたらいいんだよ」と、何かを指し示してくれるもの、断定してくれるものに人は安心を覚えるのかなとも思いますね。

 旧訳版は絶版になっていますので、古本屋さんで見つかるかもしれません。是非そちらから読まれることをオススメいたします(余計なお世話だったらごめんなさい)。